落語は特殊な文化というか芸なのだと思う(伝統芸能はすべてそうなのかも知れないが)。ある特定の人たちだけに開かれた(つまりは良くも悪くも、いや、良いことだけかな。良い意味で閉鎖的な)コミュニティ。団体。落語村出身者が、免許制度によって成り立っている人間の芸、それがプロの落語家(らくごか)なのだろうと思う。
決して「素人の落語を話したい人達」を否定したいわけではありません。それはそれで趣味として楽しいだろうし、落語を民間に広く喧伝する意味でも、落語市場を支える意味でも大変重要なポジションを占めている、プロの落語家(らくごか)達にも必要不可欠な大切な存在であります。でも誤解を恐れずに言えば、「落語家」と呼んでいいのは、プロだけだと思うの、あたい。
正当な師弟でもなく、関係性がない(村出身者じゃない)人間がいくら巧く話しても、(お金を払いたくなるほどには)魅力的に感じない。俺は。いくら下手な前座さんでも「●●師匠のお弟子さん」という文脈を持って、人生を落語に賭けているから楽しめる。上手い下手の前に「覚悟」があるから、気持ちよい、潔い。
落語、覚悟。
(家計的に人生的に)安全なゾーンから、「時々落語を楽しみんでやってます」程度の覚悟と、(もう俺には私には落語しかない。今は絶望的に貧乏だけど、ちっとも客が入らないけど、いつか俺も上手くなって大勢の客を笑わせたい、金を稼ぎたいっっっっ)ってプロ職業人としての覚悟とでは、覚悟の純度と硬度が違うのだ。
俺は断然、後者が好きだ。憧れる。
そうだ、憧れだ。俺ができなかった生き方をしている前座さんに、俺は強い憧れを抱く。そこは下手でもどうでもいい。尊敬する。いくら噺が下手でも、万が一、人間的に屑でも。落語家、噺家になろうと入門した人間ってだけで、一定の尊敬の念を俺は抱くよ。その勇気と決断に。
佐藤家、加藤家ってのがあるように、「落語家(らくごけ)」って家系が、世界には純然と存在する。その家系の中で成立している文化・芸だから面白いし、いわゆる素人落語家(素人で落語を話したい人達)にはちっとも俺は傾倒しないのだろうと思います。
家系的に異端な人間(脈絡もなく生まれている存在している。他の職業をしながら時々落語、面白い話を話す人)が、どんだけ稽古して、どれだけ流暢にしゃべっても俺には楽しめない。落語は喋りが上手い、芸が達者云々、話芸(だけ)じゃなく。人間が人生を賭けて向き合っている芸なのだ。と思うのであります。
★マーケティングの視点★
高級ブランド品と言われる物と、100円ショップで売り買いされるものとでは、「ブランド」が全く違う。どちらも両立するものですが、全く違う。プロとアマでは、その背景、ブランド性が異なるのだと思うのです。ダメなブランド品(ブランドがしっかり確立されてない、あるいは崩れてきてしまった)もある。でも、ブランド品はブランド品。
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